校区の歴史

400年の歴史ある町・古町地区

古町は、加藤清正が熊本城築城の際に作った町人町で、たくさんの商人・職人が住んだ町です。熊本城完成が1607年といわれていて、古町もその頃生まれました。400年以上の歴史がある古い町です。
碁盤の目状の町割が特徴で、一辺約120mの正方形の区画が並んでいます。しかもその正方形の1区画ごとにお寺が1つ置かれ(一町一寺制)、周りを町屋が囲みました。
このような形がとられたのは宗教上の理由というよりも、軍備上有効だからという意味合いの方が強かったようです。
町屋とは、道路に面する手前が商店となっていて奥に住居がある、商住一体の建物の総称で、間口が狭く、奥に細長い(いわゆる鰻の寝床)、通り土間や坪庭がある、などの特徴がある家屋です。
現在、町屋の価値を見直し、保存・再活用したいという住民の声もあり、熊本県・市との連携が計画されています。

古町ってどんな町?

ところで、現在は「古町」という住所はありません。加藤清正が熊本城を作った当時、市町86町は「坪井」「京町」「新町」「古町」に大別され、さらに「古町」について以下のような記述が見られます。(「肥後國誌」より)

  • 【細工町の内】細工町1丁目、2丁目、3丁目、4丁目、石塘町(現在の細工町5丁目)
  • 【西古町の内】呉服町、西阿弥陀寺町、桶屋町、川端町、西唐人町、中阿弥陀寺町、中唐人町、鍛冶屋町
  • 【中古町の内】米屋町、萬町、大工町、板屋町、魚屋町(2丁目、3丁目)、小澤町
  • 【東古町の内】魚屋町(1丁目)
  • 【紺屋町の内】紺屋阿弥陀寺町
そして、現在ではこの五福校区あたりに古くからある町を総称して「古町」と呼んでいます。
五福校区には全部で16の町があります。
西唐人町、中唐人町、鍛冶屋町、魚屋町、板屋町、米屋町、呉服町、細工町、万町、古大工町、紺屋阿弥陀寺町、東阿弥陀寺町、西阿弥陀寺町、小沢町、古桶屋町、川端町
これらの町名は、そこに住んだ商人・職人にちなんだものが多く、400年前から変わっていません。

明治~大正時代には熊本の中心地でした

古町ができた江戸時代は、「士農工商」という身分制度があり、古町の住民である「工」(職人)や「商」(商人)は、身分の低い職業でした。しかし明治時代になるとこの身分制度は廃止され、手に職のあった職人や財を成していた商人たちが、一気に力を発揮しました。
ここ古町は商業・経済の中心地となり、数々の商店、卸問屋、製造業、銀行、デパートなどが立ち並びました。芝居小屋や映画館などの娯楽施設も多かったようです。明治時代~昭和初期まで栄華を極めました。

「呉服町」だけど「五福」?

町の発展とともに、古町の住民たちは豊富な資金を教育に注ぎました。寄付を募って、校舎を建てたり校地を拡張したりしたことで、県内でも早い明治8年に「五福小学校」が生まれました。
呉服町に正門があったことから本来は「呉服小学校」となるべきでしたが、当時の県令(今の県知事)が中国最古の歴史書「書経」から引用して「五福小学校」と名付けました。
「五福」とは人間の幸せに必要な五つのキーワードのことで、

  • 「寿」…寿命が長いこと
  • 「富」…財力が豊かなこと
  • 「康寧」…健康で心が安らかであること
  • 「攸好徳」…徳を好むこと 慈愛に満ち寛大であること
  • 「考終命」…災難や気がかりなく落ち着いた心持ちで天命を全うすること
特に「好徳」が重要とされ、「徳」があってこそ他の四福が伴うとのことです。

歴史スポット

古町地区は「一町一寺」(いっちょういちじ)といって、碁盤の目状の町割に、各区画に1つのお寺が配されているのが特徴の珍しい町です。これは古町が作られた400年前から変わっていません。
今でもなお約20のお寺が点在しており、各お寺には「一町一寺巡り」案内板が設置されています。
お寺の由来や特徴が記されていますので、お寺巡りを楽しんではいかがでしょうか。

~西唐人町~

心光寺(しんこうじ)

◎一町一寺巡り案内板より◎ 当寺は浄土宗心光寺といい、本願念仏の実践道場として慶長10年(1605)信蓮社[しんれんじゃ]源誉[げんよ]冏公上人[けいこうしょうにん]により建立されました。
明治10年(1877)西南の役で堂宇[どうう](軒)を焼失しましたが、明治24年(1891)に本堂が再建され今に至っています。
観音堂に安置される聖観世音菩薩像は子育て観音として親しまれ、肥後三十三ヵ所観音霊場第5番になっています。
また当寺には明治5~8年(1872~1875)の間、五福小学校の前身である西唐学校が置かれていました。

~魚屋町~

専立寺(せんりゅうじ)

◎一町一寺巡り案内板より◎ 当寺の先祖は、934年京都祗園宮の分霊を勧請して祗園宮(現在の北岡神社)を御草創した時、当地に下向したお供のひとりと伝えられています。
その後子孫は、上益城郡の七瀧に住み、田代太郎左衛門が法名慶西[けいさい]と改め慶長19年(1614)に本願寺第13代良如上人[りょうにょしょうにん]より専立寺という寺号と阿弥陀如来立像をいただき現在地に建立しました。
甲の年に建立したので山号を甲立山[こうりゅうざん]と号しました。
本堂は明治10年(1877)の西南戦争で全焼し再建され今日に至っています。

正龍寺(しょうりゅうじ)

◎一町一寺巡り案内板より◎ 当寺は慶長9年(1604)加藤清正公による町造りの基本「一町内一ヶ寺」として釈慶念[しゃくきょうねん](米村理兵衛)により浄土真宗の寺院として建立されました。
11代の霊瑞[れいずい]、12代の霊瑞、13代の永信にかけて学寮を営んでおり、 松本喜三郎 が生人形造りの研究に勤しんでいました。境内の碑には霊瑞入寂[にゅうじゃく]当時の学寮の門人92名の名が刻まれています。
現在の本堂は明治10年(1877)の西南の役で焼失した直後に再建され今日に至っています。

~万町~

成満寺(じょうまんじ)

◎一町一寺巡り案内板より◎ 当寺は、豊後国壇村[だんむら](現大分県玖珠郡)の殿の次男であった公信が、浄土真宗第8代宗主蓮如上人より教化を受け、明応2年(1493)に成満寺を建立したのを由来とします。
その後、四世祐真の時、慶長年中城下町整備の際に、加藤清正公の招きに応じ現在地に領地をいただき本堂を建立しました。
当時の境内は20間(約40m)四面あり、本堂も7間(約13m)四面の寺であったと伝わっています。
現在の本堂は大正7年(1918)3月に完成しています。
境内西側の六角堂の経蔵(経典を納めておく蔵)は昭和4年(1929)に、また東側の鐘楼(鐘つき堂)は昭和5年(1930)に寄付により造られました。

~東阿弥陀寺町~

善教寺(ぜんきょうじ)

◎一町一寺巡り案内板より◎ 当寺は浄土真宗善教寺といい、慶長18年(1613)に祐慶師[ゆうけいし]により建立されました。祐慶師の俗名は本田大和守[やまとのかみ]藤原善教[よしのり]といいます。
先祖の五位諸太夫、本田義明は承平4年(934)肥後国司、藤原保昌鎮護国家のため、京の祗園宮を古府中に勧進した時、神輿の供奉者として他の6名と共に下向して来ました。以来、数十代古府中無漏小路[むろうしょうじ]に住んで祗園宮に奉仕しました。
元亀3年(1573)3月、本田善右衛門久次の時、神職を辞めて剃髪し祐心と改め、その子吉左衛門善教[よしざえもんよしのり]も剃髪し祐慶と名乗りました。

~西阿弥陀寺町~

西流寺(さいりゅうじ)

◎一町一寺巡り案内板より◎ 当寺は寛永2年(1626)浄土宗として照蓮社[しょうれんじゃ]寂誉上人[じゃくよしょうにん]により建立され、山号を清泰山、寺号を西流寺といいます。
上人は、往生院(大阪にある日本の仏教寺院)を再興した人物である。
境内の本堂横には観世音堂があり千住観世音が納められています。また本堂には阿弥陀三尊の他、閻魔さまが納められています。
なお明治8年(1875)五福小学校が創立されるまでの間、五福小学校の前身である西阿学校がありました。(明治5年~8年)

教厳寺(きょうごんじ)

◎一町一寺巡り案内板より◎ 当寺は浄土真宗本願寺派寶雲山[ほううんざん]教厳寺といい、寛永9年(1632)釈宗悦[しゃくしゅうえつ]法師[ほっし]によって建立されました。
先祖は、矢部野原郷[やべのはらごう]飯蓋村[いいふたむら](現山都町井無田)の村落領主であった飯蓋備中守[びっちゅうのかみ]光金[みつかね]こと菅原武宣「たけのぶ]と伝えられています。
現地には、阿蘇氏の十二外城のひとつ「飯蓋城」跡や、大永7年(1527)に造立された「井無田の六地蔵塔」が現存しています。
当寺は明治10年(1877)2月24日、西南戦争により焼失し、現在の本堂は、西南戦争直後設立された紺屋町の説教所を解体し、昭和7年(1932)当地に再建されたものです。

~古桶屋町~

普賢寺(ふげんじ)

民謡「おてもやん」の歌詞の中に出てくる「夜聴聞詣り」(よじょもんまいり)の舞台と言われているお寺。
「夜聴聞」とは、夜、お寺の説教・説法を聴く会のことで、住職のありがたいお話が聴けると同時に、当時は男女の出会いの場でもあったようです。
歌詞の中で、おてもやんは「夜聴聞詣り」に行って、気になる人とお話しがしたい、と歌っています。
現在では、毎年8月に「城華(しろはな)まつり」が開催され、たくさんの浴衣姿の男女でにぎわいます。
「城華まつり」は「和」にこだわった手作りのお祭りです。
境内では、和風かき氷や焼き鳥、わたがしなどが販売され、ステージでは、三味線や昭和歌謡のライブ。本堂では、和雑貨・和小物の販売、小学生による落語などが披露されます。

◎一町一寺巡り案内板より◎ 当寺は浄土真宗の教えを熊本の地に最初に伝えた寺院のひとつです。
本寺を建立した道了法師[どうりゅうほっし]は、室町時代の永正13年(1516)に菊池の泗水にこの寺を建立しました。
その後、加藤清正公の求めで、慶長10年(1605)当地に寺を移転しました。
本堂は西南の役の際焼失し、明治16年(1883)に再建されました。境内や参道は移転当時のままで、四方に町を配した典型的な一町一寺の形を今に留めています。
また本堂には、華やかな天井絵を確認することもできます。

~細工町~

西光寺(さいこうじ)

加藤清正が熊本城築城の折、山鹿から古町地区に招いたお寺で、古町ひいては熊本でも最大規模の大きさを誇るお寺のひとつ。
明治10年の西南の役で焼失するも、明治40年再建。
加藤清正が慶長16年(1611年)に亡くなった折、「西光寺原で葬儀が行なわれた」という記録があり、はっきりとした場所は分からないものの、ここ西光寺一帯だろうと言われています。
五福校区最大のイベント「風流街浪漫フェスタ」(ふるまちろまんふぇすた)では境内が開放され、来場者の休憩処となります。五福小児童がお茶を入れたり、お年寄りの肩叩きをしたりといった光景が見られます。

◎一町一寺巡り案内板より◎ 熊本城下の真宗三ヶ寺のひとつ。
当寺は明応年間(1490年代)了宗という僧が山鹿郡片保田村に建立し、永正5年(1508)上洛して本願寺から西光寺の寺号を得て、3代目了勧の時に、加藤清正公の命により現在地へ移転しました。
県内の浄土真宗として最古の歴史をもっています。寺伝によると、西光寺の伽藍[がらん](寺院の主要な建物)は熊本城築城の余材で造られ、加藤清正公も度々参詣されており、清正公奉納の『一切経[いっさいきょう]』(仏教の百科事典)も大半が現存しています。

明教寺(めいきょうじ)

◎一町一寺巡り案内板より◎ 当寺は浄土真宗西雲山[せいうんざん]明教寺といい、天正2年(1572)に超慶[ちょうけい]により、現在の熊本市北区植木町に本堂を建立しました。
その後、慶長10年(1605)国主加藤清正公の命により今の寺地である現住所に移転し、現在に至っております。

西顕寺(さいけんじ)

◎一町一寺巡り案内板より◎ 当寺は浄土真宗菊池山西顕寺といい、現在の菊池市を本拠としていた菊池氏第25代菊池武包[たけかね]の孫、浄運[じょううん]によって開かれました。
当時は禅宗の寺院で西現寺と名乗っており二本木府中にありました。
慶長の頃(1595~1623)、加藤清正公の命により現住所(細工町)に移りました。
また2代目住職祐道[ゆうどう]の時、寛永元年(1624)本願寺第12代門主、准如上人[じゅんにょしょうにん]の時、寺号を賜り、禅宗西現寺から浄土真宗西顕寺と改め現在に至っています。

浄影寺(じょうようじ)

◎一町一寺巡り案内板より◎ 当寺は慶長の頃(1595~1623)に浄土真宗本願寺派として現在地に造立され、寛永20年(1643) 西光寺 の末寺として寺号を免許されました。
寺院の創設者は植木町味取出身の青木浄周[じょうしゅう]です。
明治10年(1877)西南の役の際に、本堂・庫裡[くり](僧侶の居住する場所)ともに焼失しましたが、明治20年(1887)本堂を再建し現在に至っています。

阿弥陀寺(あみだじ)

加藤清正が熊本城築城の折、古町地区に招いたお寺のひとつ。
建立当時は白川岸にあり、そのため周辺地域は阿弥陀寺町と名づけられました(現在は東阿弥陀寺町・西阿弥陀寺町・紺屋阿弥陀寺町が残っています)。
しかし、度重なる白川の洪水に遭い、お寺は現在の細工町に移りました。
敷地に入るとまず本堂前に立つ、一対の仁王像が目に入ります。勇壮な構えの見事な石像ですが、これはもともと北岡神社(熊本市春日)にあったもの。明治元年の神仏分離令により、細工町の本覚寺に移り、本覚寺が廃寺(のち五福小学校)となったため、さらに阿弥陀寺に移されたと考えられています。
また、敷地内には阿蘇大宮司惟光の墓、飯田覚兵衛の墓があります。
飯田覚兵衛は築城の名手であったことから、現在でも建築業者・大工職の方が参拝に訪れることもあるとか。

◎一町一寺巡り案内板より◎ 当寺は浄土宗阿弥陀寺といい、天正の頃(1573~1592)、清正公領国の時、飽田郡南阿弥陀寺村より白川のほとり(今の東・西・紺屋阿弥陀寺町付近)に移転し建立されました。しかし度々の洪水から、慶長の頃(1596~1615)に現地に移っています。
当寺には熊本城の築城の名手と言われた清正公四天王のひとりである飯田覚兵衛・長尾豊前・清水家などの墓が祭られています。
また、文禄元年(1592)秀吉の命で12歳で命を落とした大宮司阿蘇惟光氏の墓も祭られています。

宗禅寺(そうぜんじ)

寛永9年(1633年)、細川忠利の肥後入国に随伴した僧・宗善が創建したお寺。
閻魔大王像を祀っていることから、毎年8月16日に「五福ふれあいまちづくりの会」により「閻魔まつり」が開催されています。
この日は、本堂に「 総社神社 」の 閻魔像 が運び込まれ、参道には五福小児童手作りの灯籠が並びます。境内にはカキ氷や金魚すくいなどの出店が立ち、近隣住民でにぎわいます。名物の閻魔カレー(辛口)も好評です。
宗禅寺に通じる細い道路は「羅漢小路」(らかんしゅうじ)と呼ばれています。宗善が羅漢寺の僧だったことから、宗禅寺は創建直後、羅漢寺とも呼ばれていたためと言われています。
ちなみに羅漢小路は熊本市の市道1号線となりました。
宗禅寺ができる以前のこの土地は、隈本城城主・城親賢の茶屋(別荘)→城氏死後は旧臣平川氏が草庵を建て、天神様(菅原道真)を祀りました。
天神様は、宗禅寺ができた後も境内に残りましたが、明治元年の「神仏分離令」により細工町へ移され、「 白梅天満宮 」として現存しています。
境内には三世塚というのがあり、松尾芭蕉の句が刻まれています。
(表)
俳諧元祖 芭蕉翁
二世 梅花仏
三世 廬元坊
(裏)
古池やかはづ飛こむ水の音 芭蕉翁
牛呵る声に鴫立つ夕べかな 梅花仏
住み飽た世とは嘘なり月に花 廬元坊
これは、肥後の美濃派の俳人たちが廬元坊の13回忌に際して建てた碑で、宝暦9年(1759年)の建立というたいへん古い物。
ちなみに梅花仏(ばいかぶつ)とは芭蕉十哲の一人・各務支考(かがみしこう)のこと。廬元坊(ろげんぼう)はその後継者。

◎一町一寺巡り案内板より◎ 当寺は福井県永平寺を本山とする曹洞宗の寺として寛永9年(1632)、細川忠利公肥後入国の際に随伴した宗善が、当地に建立しました。
天正年間(1573~1591)の頃は隈本城主、城[じょう]越前守[えちぜんのかみ]親賢[ちかまさ]の茶屋(別荘)で、城氏没後は旧臣平川氏の草庵でした。
境内には、放牛地蔵(4体目)、西南戦争で亡くなった方々の墓などがあります。
毎年8月16日(地獄の釜のあく日)には、境内で町内手作りの「えんま祭り」が行なわれ賑わっています。

~小沢町~

西福寺(さいふくじ)

細川家の菩提寺。
映心院殿、光含院殿、臨泉院殿、興願院殿などのお墓があり、清涼院殿自筆の写経など細川家ゆかりの寺宝が伝わっています。
細川家お抱えの絵師、矢野良勝・矢野良敬のお墓、加藤家の家臣、 井上大九郎 のお墓、肥後狂句の元祖、自松軒首藤久喜麿のお墓などもあります。
また、熊本県内最古の「庚申塔」が残っています。
「庚申塔」とは、庚申信仰により建てられた塔のこと。庚申の日に眠ると体内から虫が出て、人の悪事を神に告げ口するから、この日は誰もが夜通し起きていたといわれています。
西福寺の「庚申塔」は明応8年(1499)に建てられた県内最古のもの。

◎一町一寺巡り案内板より◎ 当寺は浄土宗東光山[とうこうざん]了雲院[りょううんいん]松平西福寺[まつだいらさいふくじ]といい、慶長の頃(1595~1623)、加藤忠広公ご内室(崇法院殿[すうほういんでん])が、江戸の松平西福寺より招いた釈誉上人[しゃくよしょうにん]によって開かれました。
ご内室は徳川家康公の孫姫で、蒲生秀行公(蒲生氏郷[うじさと]公と織田信長公の次女冬姫の嫡男)の嫡女。父秀行公の死後、祖父家康公のはからいにより伯父徳川秀忠公の養女となり、忠広公にお輿入れされます。
ご内室はその徳川家康公・秀忠公・蒲生秀行公をはじめ、徳川家・蒲生家・加藤家の菩提をこの寺で弔いました。
その後、細川宗孝[むねたか]公の母君、映心院殿が入国されると、当寺を細川公の菩提所と定められ、細川護久[もりひさ]公・護成[もりしげ]公の母君ほか諸名家の葬儀を行い、その墓所があります。

松音寺(しょうおんじ)

◎一町一寺巡り案内板より◎ 当寺は浄土宗松音寺といい、寛永2年(1625)に 西福寺 を開いた釈誉上人により隠居寺として現在地に開かれました。
当院地蔵堂には延命地蔵菩薩が安置されています。
また本堂・庫裡(僧侶の居住する場所)は平成3年(1991)の大型台風により全壊したため現在の本堂は平成3年(1991)に再建し現在に至ります。

法蓮寺(ほうれんじ)

◎一町一寺巡り案内板より◎ 当寺は浄土宗法蓮寺といい、寛永年間(1624~1645)に往誉上人[おうよしょうにん]により現在地に建立されました。
当院地蔵堂には延命地蔵菩薩が祀られており、本堂・庫裡[くり](僧侶の居住する場所)は平成3年(1991)の大型台風により半壊のため解体され現在に至っています。

聖光寺(しょうこうじ)

◎一町一寺巡り案内板より◎ 当寺は浄土真宗聖光寺といい、慶長7年(1603)に嘆蓮社[たんれんじゃ]然誉上人[ねんようしょうにん]により建立されました。上人は、当時荒廃していた往生院の復興に尽力したことで藩主加藤家の信仰を得た僧侶です。
当時、境内は表口30間(約54m)の広さがあり、西南戦争の際も戦火を免れ現在に至っています。
なお当寺は坪井川を隔てて北岡自然公園と向かい合い、山間の地蔵堂には放牛地蔵57体目が納められています。